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2007年12月31日

千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その5

救助先行車の名前の由来について


千葉市 TAK

>消防官希望様


この前はお名前を間違えてしまってすいませんでした。
ちょっと横レスで失礼いたします。
たしかに署隊指揮隊車を指してこの「救助先行車」という車種名は不思議に思われますよね。
話は古く、戦後すぐの昭和23年に警視庁消防部が自治体消防組織として東京消防庁として再発足した頃に溯ります。
その頃はまだ現在のような署隊指揮隊の制度はきちんと整備されてはおりませんでした。
通常は署隊の先行ポンプ小隊に大隊長が乗車して大隊指揮車を兼ねておりました。
(この形態は今でも指揮隊の制度の整備されていない中小都市消防で行われています。)
そのころは戦後の混乱期もわずかに一息ついた状態でそれまでは軽かった人命の価値がGHQとの経緯もあってようやく災害現場における人命救助に目が向けられるようになりました。
そこで戦前にあった専任救助隊制度のミニリバイバル版として最先着中隊のうち、先行ポンプ小隊の乗車人員の中の隊員1名を先行員として指定しておき、
(当時のポンプ車は7名乗車が一般的でした。指揮者1名、機関員1名、2口放水2線延長が前提で筒先放水員4名、伝令員を兼ねた先行員1名)
火災事案において人命危険が予測されるときに現着後、水利部署、および、ポンプ操作に従事せず、まっしぐらに火災現場に直行して火元建物・火点の確認、要救助者の目認、聞き込み、進入検索、救助作業の着手、避難誘導、後着特命救助隊員・防禦隊員の誘導、指揮者への情報伝達、および伝令員を1人でこなしていたわけです。
(まあ、現在のクイックアタッカーと呼ばれている消防二輪車先行員の課せられている活動そのものなわけです。)
もちろん当時定員充足の首都の東消庁だからこのような組織的救助活動ができたわけで、他はまだ消防団が主力で消防本部を設置できた都市消防でも空腹と日々の組織運営にひいひいでそれどころではなかったわけで、ほとんど東消庁の独壇場でした。
そして昭和30年3月に東消庁に専任救助隊制度が正式に復活したのですが、専任救助隊が配備されていない出張所配備の中隊などでは継続して先行員が上記の人命救助活動に活躍していたようです。
この伝統がずっと東消庁がアグレッシブな人命救助活動を行ない、他の消防を寄せ付けないほどの救助実績をあげてきたわけです。
そして、大体この頃に署隊指揮隊の制度が充実して出場計画に署隊指揮隊の出場が正式に組込まれるようになってきたようです。
(制度上、はっきりいつから正式通達されたのかはわかりませんが。)
そして署隊指揮隊の大隊長はもとより、指揮担当、伝令担当、情報担当、通信担当の各スタッフの任務がそれまでの先行員の行なっていた要救助者の目認、聞き込みを始めとした諸活動を包括して発展解消させて引き継いだものであったので指揮隊の乗車車両が救助先行車と呼称されるようになったようです。
もちろん指揮隊は救助活動だけを行なうわけではなく、救助・防禦の指揮も同時に行なうわけで呼称としてはやや偏った呼称法なのですが、一つには東消庁においては人命救助を最優先事項とするという大前提を当時から現在に至るまで掲げていますのでこの呼び方が今に至るまでも通っているようです。
また、東消庁以外の同様な例として札幌消防には同時期から照明潜行隊車という部隊が配備されていました。
現場での照明作業はもちろん、東消庁とは違った運用の仕方で先行ポンプ車隊から先行員を割く代わりに特科隊に先行救助任務を帯びさせて専任救助隊に等しい任務を遂行させていました。
このなごりか、今でも照明車を救助照明車と呼称している自治体消防が結構あります。
(千葉消防でもつい最近まで照明電源車を救助照明車と呼んでおりました。
もちろん現場照明が任務で救助活動は基本的にしません。)
最近もてはやされ過ぎのきらいのある特別救助隊、ハイパーレスキューはたしかに実効的で素晴らしい部隊組織ではありますが、建物火災のうち最も数多く発生する火元建物の救助有効時間が極めて短い、一般民家火災においては最先着のポンプ隊の人命救助活動の如何が救助戦の成否を決するのは今でも変わっておりません。

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投稿日:1999年3月11日 ebara71さんのBBSに投稿
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投稿者 taksoho : 2007年12月31日 05:46

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