2007年12月31日
千葉消防徒然話 番外編 その1
千葉市消防団の装備
>masa様
千葉市 TAK
横レスで失礼します。
ご指摘の通り現在、千葉市消防団の装備車両は小型動力ポンプ積載車しかありません。
しかし、昔はポンプ車を装備していました。
昭和41年予算年度までは必要に応じて消防本部/消防局の第一線使用車両とまったく同じ小型ポンプ車の新車(たとえばトヨタランドクルーザーFJ45V改)
を新規購入して支給していました。
また、なんと一時期、いすゞTXG10クラスの水槽付ポンプ車まで持っていました。
(これは昭和44年の土気町との合併で土気町消防団の所有車両が千葉市消防団に第21分団として組み込まれたためです。土気町消防団は編入までは消防最前線部隊でしたのでなかなか士気が高かったようです。)
しかしそれ以降は新車支給を止めて、消防局で経年更新の予備ポンプ車として使用終了した老朽車両(はっきりいえば廃車レベル)
をまわすようになりました。
あるいは更新期限を過ぎたようなそれまでの所有ポンプ車を引っ張ってだまして使っていました。
従って、消防団の所有車両は一時期、まあ、スクラップに近い古い車両ばかりになってしまって団の側でかなり不満が募っていたようです。
ひとつには昭和46年の田畑百貨店火災において当時の現場最高指揮者の大石局次長が防御投入部隊を局職員のみに限ったため、(高層ビル火災の戦闘なので無用な事故が起きないようにむやみな人員投入を避けたこと。)
それ以降消防団は第一線にはあまり出なくなりました。
せいぜい中継送水作業くらいになりました。
大都市消防でも西日本などでは第一線部隊として消防団が中高層建物火災や危険物火災などにまで出場している例は結構あるようですが。
面白いことに昭和52年度以降、7〜8年くらいの間消防出初式には局所有の小型ポンプ車はまったく出なくなって
しまっていました。
これは出初式に小型ポンプ車(とりわけ新車)を見せてしまうと団の側の不満がつのるのでという話でした。(笑)
局の団係の方もなかなかご苦労があったようです。
確か昭和61〜2年前後くらいだったかと思いますがとうとう団の側の不満を解消すべく超老朽車両を一挙大量に新規購入の小型動力ポンプ積載車に更新しました。そして数年にして全部入れ替えてしまいました。
それ以来千葉市消防団の装備車両は小型動力ポンプ積載車一本に統一されました。
団長さんにもセダン型指揮車が支給されました。
以降、消防出初式にも局所有の小型ポンプ車が出てくるようになりました。(笑)
以上、ご参考になれば幸いです。
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投稿日:2001年12月3日
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投稿者 taksoho : 05:35 | コメント (0)
千葉消防徒然話 番外編 その2
千葉消防の移動貯水車
>masa様
千葉市TAK
10t積載型水槽車(SL)のことですね。
千葉消防では移動貯水車と称しておりました。
車両形式はいずゞSPG540の3軸ロングシャーシー、車両の最後尾にB2型ポンプを備えていました。
最大の特徴は水槽がステンレス製の乳製品や飲料を運搬するタンクローリータイプでいざという時は生活飲料の給水車としても使えることでした。
この車両は昭和52年12月に千葉消防に寄贈(!)されました。
ずーっと真砂町の局本部に置かれ、警防課直轄で運用されていました。
平成4年4月に政令指定都市になると同時に緑署本署に配置替えとなりました。
まあ、あんまり活躍はしていなかったようで、演習・出初式以外で緊急走行していたところは1度も見たことがありませんでしたね。
山林火災などにはそれなりにときたま出ていたんでしょうが。
平成9年中まで在籍していたようですが結局更新はされませんでした。
更新されなかった最大の理由は千葉消防が政令指定都市になった時期にあわせ従来の1.5t積載型水槽付ポンプ車を4.5t積載型水槽付ポンプ車に切り替え購入・運用を始めたことが最大の理由と思われます。
確かに4.5t積み2台あればSL1台とほぼ同じなのですから効果対費用の面でメリットが少なくなったんでしょう。
先程この車両は寄贈されたと書きましたが、愛称を”斉藤7号”とつけられておりました。
これは斉藤市蔵さんとおっしゃる斉藤油脂株式会社の社長さんが消防車寄贈マニアでいらっしゃって
昭和36年10月に水槽付ポンプ車を寄贈以来、
(初代”斉藤号”、蘇我出張所に配備)、
昭和43年に救急車2台、
(”斉藤2号、””同3号”、穴川と中央署本署に配備)
昭和47年に水槽付ポンプ車2台
(”斉藤4号、””同5号”、西千葉と幕張に配備)
昭和51年にマイクロバス型指揮統制車
(”斉藤6号”、局本部警防課に配備)
そして最終寄贈の7号車が前述移動貯水車でした。
(斉藤さんがまだご存命かどうかわかりません。)
まあ、消防予算貧弱なりし頃の千葉消防にとってはまことにありがたいご厚意でした。
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投稿日:2000年2月18日
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投稿者 taksoho : 05:37 | コメント (0)
千葉消防徒然話 番外編 その3
臨港1小隊使用車両の隊名表示について
>消防都纏 様
千葉市 TAK
こんにちは。
ご回答が遅くなりましてすいません。
>臨港の1小隊は化学車なのにドアの文字は
>臨T-1となっています。
お尋ねの臨港1小隊の使用車両(C2)の隊名表示が化学車なのになぜ臨T−1
(水槽付ポンプ車の扱い)
になっているかですが、これは同一署所での化学車の複数台配置によるものと考えます。
他例を見ていくと美浜本署のポンプ1小隊は大型化学車を使用していますが、ドア下の隊名表示は
美C−1になっています。
当然こちらの表示が原則的・普遍的で、臨港1小隊の使用車両もこれに倣うべきなのですが、それではなぜ、T表示になっているのか、車両種類区分としてはホスカー付普通化学車(CP)に間違えなく認識区分されているわけで車両コードは平成1年3月に南署本署(現・宮崎出張所)に新車就役以来ずーっとC2の筈です。
別に化学消火装置を取り外したとかいうことはまったくありません。
この普通化学車(CP)が平成8年3月に宮崎出張所から臨港出張所に配置替えされた時点で、すでに臨港に配置されていた大型化学車(耐爆装甲化学車を更新した車両)に臨C−1と書かれてあった表示を臨C−2と書き換え、新規転属配置の普通化学車(C2)に臨C−1と書き込むべきだったのでしょうが、
おそらく大型化学車の表示をも書き換えるのがちょっとだけ面倒だったんでしょう。(笑)
大型化学車の表示を臨C−1のままにして普通化学車(C2)の表示を臨C−2と書く方法もあったのでしょうが、ポンプ1小隊として使用するのでそうしたくなかったのではないのでしょうか。
(あくまでも推測ですが。)
なお、化学車の複数重複配置の実例としては南署本署が嚆矢です。
昭和54年2月にもともとあった普通化学車(C43)に加え、(南署1分隊として運用されていました。)
損害保険協会より寄贈された大型化学車(C10)が追加配備されて重複運用されました。
その後配置移動があって南署本署にポンプ1分隊に生浜から水槽付ポンプ車が廻ってきて化学車の
重複配置は一旦消えましたが、平成1年3月に上記のとおり、普通化学車(C2)の新規配備に
よって再び重複配置が復活しました。
平成8年3月に先に書いたとおり普通化学車(C2)が宮崎出張所から臨港出張所に配置替えされたことで重複配備は消えました。
また平成2年1月に、それまで中央署本署に配備されていたDC化学車(CD)が高浜出張所に配置替えされて、すでにあった3点セットのユニットの大型化学車と重複配置になったことがあります。
DC化学車はその後平成5年4月の打瀬出張所の新設にともなって高浜より転属して重複配置は消えました。
化学車の同一署所への重複配備は東消庁でさえも非常に珍しく、せいぜい空港分署くらいのものです。
市原やら袖ヶ浦やら成田あたりでは化学車の台数が多いので見られるかもしれません。
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投稿日:2001年4月3日
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投稿者 taksoho : 05:38 | コメント (0)
千葉消防徒然話 番外編 その4
貴方の家の隣に消防出張所を作ってもらう傾向と対策
千葉市 TAK
>masa様
最近こちらのネットでは稲毛・花見川地区の消防力不足を指摘なさる声がしきりに交わされていますが、タイトル通り、貴方の家の隣に消防出張所を作ってもうらう方法を実例を混えてちょっとご紹介申し上げます。
昭和58年5月に南消防署管内の越智町
(当時。現在は緑署管内)
に突如、越智出張所が業務を開始いたしました。
これは極めて寝耳に水でそれまでのいかなる千葉市の長期計画にも記載されていないものでした。
昭和55年3月に南署管轄に泉出張所。
昭和56年3月に同じく南署管轄に土気出張所が開設されていましたので市の東部、東南部の消防力整備拡充は一応終わったものとばかり思っていましたので心の底から驚いたわけです。
しかし、しばらくしてその事情がわかってきました。
実は角栄建設さんという建設会社が角栄団地という大規模な戸建住宅団地を分譲するにあたって敷地、
建物、ポンプ車・救急車などの消防車両を自前で提供して越智出張所を新設してもらったのでした。
(職員の人件費はどうだかわかりません。
たぶん年数を限って負担したのではないかと思われます。)
この方法は請願消防制度と言いまして、古く昭和の初期から行われていた制度なわけです。
デパートや競技場・ホールなどの人の多数集まる場所に警備の消防職員の派遣だけの場合と、例えば万博会場内に臨時の消防出張所を設けて常駐してもらう方法とがあるわけです。
越智の場合は当然後者で、建設会社側では団地に消防署も交番も(約300メーターくらい土気駅寄りの熊野神社というところに土気幹部派出所という交番がすでにありました。
いまは土気駐在所と統合されて土気駅前交番になって現在はありません。)ありますよと
いうことをひとつのセールスポイントにしたわけで、千葉消防にとっても署所の管轄の条例を市議会に
変更決議してもらうだけで財政負担なしで消防力強化ができるのですから双方メリットがあったからということだったのでしょうか。
同じように貴方の家の隣にも消防出張所を誘致できる可能性があるわけです。(笑)
(ただし、少なくとも1.5km範囲内にすでに消防署、あるいは出張所があると駄目でしょうけれど。)
話題の「幻のこてはし台出張所」もこの方法で実現させられる可能性があるわけです。
仮に、住宅都市整備公団あたり、あるいは付近の町内会の連合会が前記の費用を提供できれば敷地はすでに確保されているのですからそんなに難しいことではないと思われます。
千葉消防の側でも横戸消防用地のそばには花見川本流が流れているのだから大容量ポンパーとホース延長車もついでに寄付してもらえばなんて虫の良いこと考えたりしてみてはいかが。
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投稿日:2000年3月28日
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投稿者 taksoho : 05:39 | コメント (0)
千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その1
東消庁の今世紀最大のミステリー???
千葉市TAK
>ROPPY様
こちらこそ。別にたいした知識もあるわけでもないのですが何かお役に立てることでしたら何なりとご遠慮なく協力させて下さい。
先日の昭和50年前後の京橋消防署の移築に伴う署所の玉突き移動の件につきましてちょっとだけ補足を。
実はその時に廃止になったのは八重洲出張所だけではなく、新富出張所、および、桜橋救急隊も同時に廃止になりました。
京橋署本署が銀座から白魚橋に移築されたため新管轄区分がだぶるようになったためです。
桜橋救急隊とは一体何のことだ?と、おっしゃるかもしれません。
実際は実質的に新富出張所の救急隊のことなのです。
当時の新富出張所庁舎はかなり古くて狭くてボロくてポンプ車単隊のみしか置けない状態でありましたのでわざわざ歩いてほんの数分のところに桜橋救急隊庁舎を設けたようです。
場所は現在ある東京都桜橋ポンプ場の敷地内でした。
東消庁で救急隊が独立して運用されたのはこの事例しかおそらくないと思われます。
今でこそ、各地消防局・消防本部にドクターと高規格救急車が常駐の救急センターが各地に設立されていますが先の例はそのような進歩的な話しではなかったようです。
些末な話しですいません。
お詫びにお遊びを一つ。
−−−東消庁の今世紀最大の謎。と、かけて−−−
・なぜ第4方面の42Rが欠番なのか?
・下連雀LRとは?
・新宿Rは実は41Rではなかった??
ミステリアス・・・
−−−−−−そのこころは−−−−−−
・昭和44年に東消庁に初めて永田町特別救助隊11Rが設置されて特救東京レスキューの歴史が始まりました。
空港21R、目黒31Rと順次山手線を時計回りに各方面宛1隊づつ新設されてゆきました。
そして次の41Rは野方消防署大和出張所に配置の大和特別救助隊でした。
増強は更に続き、城東71R、立川81R、 板橋51R、足立61Rと1から8の各方面全部に配置を完了しました。
その後、昭和49年に第2次増強プランとして繁華街シリーズが始まりました。
松涛32R(渋谷)、新宿42R、豊島52R (池袋)と3大繁華街をキープする部隊の配置が完了しました。
それとほぼ同時並行的に梯子特別救助隊なる部隊が整備されました。
渋谷LR、淀橋LR(後に十二社LR)、豊洲LR(後に深川LR)、下連雀LRの4隊がそれです。
梯子特別救助隊については今まであまり 正面きって報じられることがありませんでした。
私の記憶では10年位前に12チャンネルテレビ東京で東京都提供の日曜日の早朝のPR番組で深川LRの活動内容が30分番組で放送されました。
(その時には豊洲出張所は高所放水車、大型化学車、泡原液搬送車のいわゆる3点セットのベースとなっていて豊洲LRはすでに深川署本署に移動して深川LRとなっていました。)
実際に深川署管内での中高層建物火災1次出場には城東Rなどの救助車は出場いたしませんで した。
豊洲LR(後に深川LR)がすでに出場して いたからです。
もう一つは昭和52年5月13日に起きた江東区辰己1丁目で起きた新興海陸運輸倉庫火災の際、 猛烈なバックドラフトの発生で消防職員16名、民間人5名が重軽傷を負った災害時に第一線で架梯して梯上放水中の豊洲LR隊員4名が熱傷を負ったことが新聞に大きく報じられたこと位です。
このときにも災害の大きさにも かかわらず救助車は最後まで出ずじまいでした。
特に昭和60年前後から一般梯子隊員の執務服がオレンジの救助服に代わってから左腕のセントバーナードのレスキューワッペンの有無と胸の隊名の縫い取りを見ることでしか梯子特別救助隊員と一般梯子車隊員は区別できなくなってしまいました。
梯子救助隊車の梯子車両も ちょっと見には隊名識別板も隊名標識灯も含めてLRとの区別を示すものは何もありません。
(隊名識別板、隊名標識灯には単に「渋谷L」などとしか書かれていません。)
僅かに積載されている器材の格納箱の表やサーチライトの保護カバーに「深川LR」などと書かれていることと、毎年冬になるとTVの特番で消防特集番組がいくつか放映されますがその際に映る火災・救助出場指令時に点燈される出場表示板に「渋谷LR」と書かれていることぐらいです。
さて、ようやく本題に入ってきます。
昭和52年11月に4方面に杉並43Rが新設されて4方面はR3隊体制となりました。
ところが昭和54年10月に大和41Rが廃止されて41Rは一旦欠番となってしまいましたが、
いつのまにか新宿Rが41Rに隊番号が変更されていました。
今度は42Rが欠番です。
ところがミステリアスなことに新宿Rは41Rに変更、杉並Rは42Rとなることなしに43R、42Rは欠番のままとして現在に至っております。
まことにミステリアスな話、そのものです。
繁華街シリーズ後も救助車隊は順調に増え続け、他の方面本部に第2の救助隊が新設されだしました。
芝12R、本田72R 、武蔵野82Rのグループ。
次に品川21R。
そして先程の話しの杉並43R、上野62R、
八王子83Rのグループ。
ここ5〜6年間位に設立された世田谷33R、練馬53R、江戸川73R、町田84Rのグループ。
(9方面新設にともない、八王子83Rは91Rに、 町田84Rは92Rに後に変更)
最も最近では一昨年にとうとう深川LRも74Rとなり7方面本部には4隊もの救助車隊ができあがった。
おそらく2方面HR、8方面HRに続いて新たな方面HRの設立のための布石なのではないかと思われます。
そして梯子特別救助隊はいよいよ渋谷LRを残すのみとなりました。
松涛32Rは渋谷署本署に移動して渋谷32Rとなり、現在渋谷LRと同居しています。間もなくLR制度は消えるのではないでしょうか。
(渋谷LRは平成6年4月に廃止になってLRはすべて消えました。:筆者注)
(42Rが欠番になってしまったわけは後にebara71さんのご指摘で42は「しに」、つまり「死に」に通じるので救助隊にとってふさわしくないからだと判明しました。
他にも9方面の94Rは欠番で多摩Rは95Rです。:筆者注)
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投稿日:1998年09月13日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:41 | コメント (0)
千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その2
RE:RE:はしご特別救助隊
千葉市TAK
さて、ebara71さんにお教えいただいたとおり東消庁はしご特別救助隊は役割を終えて消滅して
しまったようですが、その存在意義とは何だったのでしょうか?
勝手な私見といたしまして、
1.
ごく単純に言えば建築物の高層化・超高層化に対する未知の環境での救助・防禦活動のお手本作り。
当時の急速な建物の高層・超高層化で、標準の30m梯子では当然間に合わなくなり
35m、37m、40m、45m、48m、50mと
(東消庁では相変わらず今でも40mが最高なのですか?)
天に向かってジャックと豆の木のように伸びつづける梯子車にあわせて、より高層での活動の見本作り、言い換えればいずれは起こるであろう超高層建物火災での下からの梯子車と上からの航空隊ヘリコプターとの垂直連携戦術のサンプル作りの役割を期待されていたのではないか?
(その後江東区南砂の超高層マンション火災が起こるべくして起こったのですが。)
2.
はしご特別救助隊が4隊設立された昭和49年頃はちょうど、梯子車の戦術が壁に突き当たって転換期を迎えていた時期ではかったのか?
と、申しますのは梯上放水が窓や壁を突き破ってきた増勢火炎の制圧以外にはあまり効果が薄かったということがあると思います。昭和46年5月の千葉市の田畑百貨店の火災においても目の前で見ていても建物外部からの梯上放水は、ほかに為すすべがないので仕方なく続けていたとしか思えませんでした。一階から出火して順次上層階に燃え上がっていったのに上階に延焼阻止の拠点を確保できなかったことが実質全焼してしまった結果になったようで、まだ消火活動中に早々東消庁から調査団が来訪してデーター収集をしていました。
建物外側からの梯上放水の効果の薄さに対する対策の一つがブレークスクアート、ボーリング放水塔車の登場につながったと思われます。
はしご特別救助隊に期待されたものは火点の火点階、上層階への外部からの積極的早期進入、橋頭堡の確保、排煙口開放作業、付け加えればサルベージ(水損防止)、ならびに内部進入部隊も含めた万一の場合の撤退路確保と掩護のお手本作りの使命が科されていたのではないでしょうか?
3.
横浜消防が特別救助隊を全国に先駆けて創設したのは東消庁に先立つこと5年です。どうも私の感覚からすると老舗の横浜消防の特救創設根拠は高層建築や地下街火災、など新しい時代の特殊災害に対応すべきレインジャー部隊の意味付けにあったようにおもえます。
実際、東消庁のHRの先駆けみたいな横浜の特別消防救助隊の構成は超大型R(RR?)、K201 40m梯子車、大型CXで構成されていました。
その直弟子の千葉消防もRとLRをペアの一部隊として運用し続けて今日に至っております。
さて、東消庁においては火災現場においての人命検索救助最優先という方針から先行部隊の人命救助活動が強く義務つけられていました。
そのPTやP2、CPで運用していた(一部道路狭隘地区ではPMが救助隊に指定されていましたが)救助隊をアップグレードする形で特別救助隊の発足という一種のエリート部隊を創設したわけです。
根底には圧倒的高率の一般木造民家火災をもっとも意識しているようにおもえます。
専任救助隊を高度な器材と特殊訓練でバックアップというのがベースにあるようにおもえます。
実際、過去から現在まで東消庁の専任救助隊を含めた先行隊の一般民家火災での救助実績は他の消防をまったく寄せ付けていないわけです。
第一着隊の覚知後5分以内の現着・活動開始を最重視し続けているわけです。
(大阪消防のように昨年まで特救隊がなくオレンジ服は着せていますがポンプ車主体の東消庁の先行救助隊制度をそのまま維持していたという、今や信じ難い実例も存在するわけです。)
かたやもう一方の特科車両部隊の中の梯子隊LS隊LT隊から同じようにエリート部隊として、はしご特別救助隊が発足したわけで、一般民家火災や交通事故救出は原則的にはやや副次的にとらえているわけです。
どちらかというと生命多数危険火災、高層火災、高所救助、特殊災害が主眼であったように思われます。
そこに東消庁のRとLRとを別部隊として運用した意味合いがあったのではないでしょうか?
やや抽象論的で毎度の長文になってしまいすいません。
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投稿日:09月16日 Rescue119さんのBBSに投稿
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投稿者 taksoho : 05:43 | コメント (0)
千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その3
東消庁の今世紀最大のミステリー???(その2)
千葉市 TAK
−−−東消庁の今世紀最大の謎。(その2)と、かけて−−−
・なぜ東京消防庁のレスキュー車には予備車がないのか?
ミステリアス・・・
−−−−−−そのこころは−−−−−−
ちょうど私めが東消庁覗きを始めたのが昭和44年の永田町11Rの創設時期と大体重なっています。
永田町出張所というところは今もそうですが構造的に車庫覗き込み最悪の作りで、都民PR消防などと
いった有り難くも優しいスローガンが無かったころで、職員にはこのガキが悪戯でもしやしないかと胡散臭い目で見られながらちょろりちょろりと覗き込みにいったものです。
奇しくも我が千葉消防に(昭和45年までは千葉市消防本部の呼称でした。)
トヨタFC100改の救助工作車が初めて配備されたのと期を一にしておりました。
何しろ救助工作車などという消防車両は極端に珍しかったころでそれ以前にはたぶん横浜消防しか持っていなかったのではないかと思われます。
前にも書きましたが千葉消防レスキューは横浜消防の直弟子として昭和41年に最初は33mLR(日野TC30改)と幌付きの資器材運搬トラック(トヨタダイナ)のペアで発足いたしました。
それが救助工作車が千葉と東京の両方でほぼ同時に見られるようになったわけでそれはもうわくわくしながら積載されている弁慶の七つ道具よろしき資器材の多様さに呆れながらしきりにウォッチしておりました。
その後千葉消防の方はやっと昭和52年に2台目の救助工作車(イスズフォワードSCR370改)が配備といったのんびりしたペースでしたが東消庁の方はあっと言う間に大増殖を始め、花形一大ファミリーとして現在にいたっておりますのは皆様ご存知のとおりです。
しかしながらいまやHRを含めて25隊、31台になんなんとする大勢力でありながら当時より今だかつてレスキュー車の予備車が運用されたのを寡聞にして見たことがありません。
(2本HR、8本HR、武蔵野R、足立Rの2型と3、4型への乗り換えを除く。)
他の車種同様レスキュー車でも当然発生する車両故障、定期点検等時に私がずっと見続けたものは署所の予備ポンプ車に呼吸器関係や油圧救助器材などの一部を載せ換えた情けない姿だったのです。
なぜ東消庁ではレスキュー車の予備車運用をしないのか?
たかだか2、3台程度の予備車の運用が出来ないのはまことに不思議な話です。
もっとも予備車がないのは、はしご車も同様です。
トータルでの予備車運用予算の枠絡みでもあるのでしょうか?
すいかさんの札幌消防HPにあるようにレスキュー車の予備車運用は実例が見受けられます。
千葉消防でも昭和56年に3台目に導入した1型救助工作車(トヨタダイナJ−RU20改)をたった1年にして2型と入れ替え、資材搬送車と車種名を変えて予備車運用しておりました。
出初め式や大規模演習時にも非番員が配属されて臨時に増加運用していました。
今に至るまでもミステリーな話です。
(投稿に対してebara71さん、 KEITHさんよりご指摘をいただき、「(旧八王子Rの)古い救助車の代車で出場の上野救助」事例が初めて奇遇にも投稿当日の1998年11月9日に現場で確認されたとのことでした。
みやこまといさんよりいただいた情報では、2005年3月現在で、装備工場に救助車予備車1台あり。
退役した救助車を装備工場で管理し、車検などで入工の際に貸し出しているので、毎年のごとく車両は変わる。
無線コールサインは「装備工場+数字(確か5)」、とのことです。:筆者注)
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投稿日:1998年11月9日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:44 | コメント (0)
千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その4
東消庁の今世紀最大のミステリー???(その3)
千葉市 TAK
久々ミステリーシリーズを投稿させていただきます。
−−−東消庁の今世紀最大の謎。(その3)と、かけて−−−
・LS(屈折式空中作業車)は人命救助には向いていない?!
ミステリアス・・・
−−−−−−そのこころは−−−−−−
LSは中高層建物の人命救助には向いていない?
そんな馬鹿な! と、皆様がそう思われるのは当然の話しと思います。
ところが東消庁の過去の実際の中高層建物災害現場においての外部進入のケースで建物に架梯して人命救出にあたった部隊は圧倒的にL隊が多く、(もちろんLRも含んで。)
救助実績もLS隊については実際比較にならないくらい少ないようです。
ハシゴ隊として2着以内の先着でもない限り積極的な人命救助活動をしていることがあまり見うけられません。
(LTは話しが別。複数の救助実績も実際にあります。)
どちらかというと2出以上の中高層建物大規模災害現場ではL隊が建物正面にずらりと部署して架梯・救助活動を積極的に行ない、LS隊は目前に要救助者が見えるとか他にその車両しか任務を遂行しえないとか緊急性が生じない限り、役割分担的に人命救助は救助隊、特救隊、梯子車隊に任せて同時並行で行われる防禦活動に最初から従事するケースが数多く見受けられます。
(全面的な初期からの救助戦最優先指令に基づく戦闘でない限り救助と防禦は当然同時に行われます。)
消防OBの方の戦術解説で、スノーケル車は高層の救助にはあまり役立たないことは、日本でも米国でも実証されているとはっきり言い切っておられる方も見うけられます。
地方の中小都市の自治体消防では保有台数の関係からスノーケル車がメインにならざるを得ない消防も
あるわけですが東消庁の場合、充実した梯子車の保有台数があるわけです。
LS隊の救助活動がやや不活発な理由としては、私めが思うに、
第1には屈折式空中作業車の梯子の最大作業高の問題があるわけです。
東消庁の通例では15mから23mまでで高さとしては5階程度までで高層、超高層には届きません。
特に火点の上層階で活動するには条件的に不利にならざるを得ません。
アウトリガーを広げた部署スペースの問題や、架梯時に問題になる障害物に対する条件はL隊とたいして違わないと思われますが、この点についてはやや意見が分かれて来るかと思われます。
第2にはこの話はリフターとバスケットがどちらが有効かという問題にも絡んでくるわけです。
東消庁には従来より
・リフターの付いていない梯子車(昭和20年代から40年代初めに活躍した古典型か、その昔の野方署配備の昭和43年製作の いすゞシャーシーの15m梯子車。(車両識別番号2189)のような中層用。
なぜこの野方Lのような中途半端なものを わざわざ製作したのかは東消庁の意図不明ですが。
・かつて東消庁で最も標準的であったリフター付の梯子車。
先端のバスケットは付いていませんでした。
(大体が30m級、一部は、35m、40m級。たまに玉川署にあったような20m級も。 これも中途半端の典型)
・近年のマギラスから始まったリフターなしのバスケットのみの梯子車。
(主に最近の輸入車。かつてのベンツシャーシー、メッツぎ装の車両はリフター付、バスケットなし。)
・現在の主流の国産車両のリフターもバスケットも両方付いた梯子車。
(大体が30m級、一部は、40m級。)
・スタンダードパターンのバスケット付屈折式空中作業車
(2節または3節の20m級、または15m級)
かつては驚くほどごっついトラス構造の梯体でしたが現在は細いスマートなものにかわりました。
昭和38年から40年にかけて製作された中野、本郷、西新井配置の20mの日野のシャーシー車両と
昭和42年製作の堀留のいすゞシャーシーの15mにはエアーラインを搭載していたのが大きな特徴でした。
・バスケット付直進式空中作業車。
(という車両がかつて東消庁に存在しました。20m級。
芝署本署(昭和37年製作:車両識別番号1732)と大森本署(昭和39年製作:車両識別番号1909)に配備されていました。
やはりエアーラインを搭載していたのが大きな特徴でした。)
・垂直伸長式の空中作業車(LT:レスキュータワー車)
などの各種が過去から現在にかけて存在した、あるいは存在しているわけですが、私めの見ていた限りでは高層からの救出は大体リフターを使って要救助者を降ろしていました。
(中には旧型のリフターなしのLで、要救助者が梯子にこわごわしがみつきながら自力で降りていっていくケースもありました。
本当は救助効率から言ったら緊急時の人数多数救助はこの方法が一番良いそうなのです。
リフターを使っての作業は意外に不効率なようです。)
火災現場の煙と緊迫感が漂う中で、火災建物に対して延伸した梯子を隊員がリフターに乗って腕を振って合図を出しながら(中にはチンチンとベルを鳴らしながら)
スルスル上がっていく風景が一般的だったわけです。
ところが近年のマギラスの導入によって(当時欧米に対する輸出大幅超過問題で日本政府の強い要望によって購入が促進されたとも聞いております。
ほんとかな?)
様相は一変し、梯子の伸縮とブーム運動でバスケットを昇降させて要救助者を降ろす方が一般的になってしまったわけです。
(国産車もマギラスに倣って殆どバスケットを付けるようになりました。)
バスケットは着脱式なので旧来の方式も当然選択できるわけですがやはり使い勝手が良いようでバスケットを外しているケースは殆ど見うけられません。
作業に要する時間はあまりどちらも大差ないと思われます。
それなら安全で作業環境にゆとりの生じるバスケットの方が良いのでしょう。
(特に水難活動などでのマイナス角度での延伸ではぜんぜん楽でしょう。)梯子の最先端部分(放水銃のあるところ)の隊員用の足場というのは驚くほど小さいんですね。
ほとんど足を載せるくらいしかありません。あんな状態でグラグラ揺られながら長時間梯上放水作業を続けるなんて殆ど信じられないくらいです。
やはりバスケットの上の方が追加ホースやスタンドパイプ、呼吸器の予備ボンベなど重量物も楽に運び上げられて完全に楽でしょうね。
昔から防禦活動のしやすさではバスケットを付けていたLSはLに勝っていたわけです。エアーラインを搭載していた車両は特にそうだったでしょう。
東消庁のLS隊は現状としては減少傾向を示しているわけでLとの差別化がなくなってきた以上、LSが更に減少傾向を示して行くのは時代の流れとはいえ、仕方のないことなのかもしれません。
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投稿日:1999年2月20日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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投稿者 taksoho : 05:45 | コメント (0)
千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その5
救助先行車の名前の由来について
千葉市 TAK
>消防官希望様
この前はお名前を間違えてしまってすいませんでした。
ちょっと横レスで失礼いたします。
たしかに署隊指揮隊車を指してこの「救助先行車」という車種名は不思議に思われますよね。
話は古く、戦後すぐの昭和23年に警視庁消防部が自治体消防組織として東京消防庁として再発足した頃に溯ります。
その頃はまだ現在のような署隊指揮隊の制度はきちんと整備されてはおりませんでした。
通常は署隊の先行ポンプ小隊に大隊長が乗車して大隊指揮車を兼ねておりました。
(この形態は今でも指揮隊の制度の整備されていない中小都市消防で行われています。)
そのころは戦後の混乱期もわずかに一息ついた状態でそれまでは軽かった人命の価値がGHQとの経緯もあってようやく災害現場における人命救助に目が向けられるようになりました。
そこで戦前にあった専任救助隊制度のミニリバイバル版として最先着中隊のうち、先行ポンプ小隊の乗車人員の中の隊員1名を先行員として指定しておき、
(当時のポンプ車は7名乗車が一般的でした。指揮者1名、機関員1名、2口放水2線延長が前提で筒先放水員4名、伝令員を兼ねた先行員1名)
火災事案において人命危険が予測されるときに現着後、水利部署、および、ポンプ操作に従事せず、まっしぐらに火災現場に直行して火元建物・火点の確認、要救助者の目認、聞き込み、進入検索、救助作業の着手、避難誘導、後着特命救助隊員・防禦隊員の誘導、指揮者への情報伝達、および伝令員を1人でこなしていたわけです。
(まあ、現在のクイックアタッカーと呼ばれている消防二輪車先行員の課せられている活動そのものなわけです。)
もちろん当時定員充足の首都の東消庁だからこのような組織的救助活動ができたわけで、他はまだ消防団が主力で消防本部を設置できた都市消防でも空腹と日々の組織運営にひいひいでそれどころではなかったわけで、ほとんど東消庁の独壇場でした。
そして昭和30年3月に東消庁に専任救助隊制度が正式に復活したのですが、専任救助隊が配備されていない出張所配備の中隊などでは継続して先行員が上記の人命救助活動に活躍していたようです。
この伝統がずっと東消庁がアグレッシブな人命救助活動を行ない、他の消防を寄せ付けないほどの救助実績をあげてきたわけです。
そして、大体この頃に署隊指揮隊の制度が充実して出場計画に署隊指揮隊の出場が正式に組込まれるようになってきたようです。
(制度上、はっきりいつから正式通達されたのかはわかりませんが。)
そして署隊指揮隊の大隊長はもとより、指揮担当、伝令担当、情報担当、通信担当の各スタッフの任務がそれまでの先行員の行なっていた要救助者の目認、聞き込みを始めとした諸活動を包括して発展解消させて引き継いだものであったので指揮隊の乗車車両が救助先行車と呼称されるようになったようです。
もちろん指揮隊は救助活動だけを行なうわけではなく、救助・防禦の指揮も同時に行なうわけで呼称としてはやや偏った呼称法なのですが、一つには東消庁においては人命救助を最優先事項とするという大前提を当時から現在に至るまで掲げていますのでこの呼び方が今に至るまでも通っているようです。
また、東消庁以外の同様な例として札幌消防には同時期から照明潜行隊車という部隊が配備されていました。
現場での照明作業はもちろん、東消庁とは違った運用の仕方で先行ポンプ車隊から先行員を割く代わりに特科隊に先行救助任務を帯びさせて専任救助隊に等しい任務を遂行させていました。
このなごりか、今でも照明車を救助照明車と呼称している自治体消防が結構あります。
(千葉消防でもつい最近まで照明電源車を救助照明車と呼んでおりました。
もちろん現場照明が任務で救助活動は基本的にしません。)
最近もてはやされ過ぎのきらいのある特別救助隊、ハイパーレスキューはたしかに実効的で素晴らしい部隊組織ではありますが、建物火災のうち最も数多く発生する火元建物の救助有効時間が極めて短い、一般民家火災においては最先着のポンプ隊の人命救助活動の如何が救助戦の成否を決するのは今でも変わっておりません。
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投稿日:1999年3月11日 ebara71さんのBBSに投稿
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投稿者 taksoho : 05:46 | コメント (0)
千葉消防徒然話番外編 東京消防庁バージョン その6
東消庁の今世紀最大のミステリー???(その4)
千葉市 TAK
−−−東消庁の今世紀最大の謎。(その4)と、かけて−−−
・RP(ポンプ付救助車)の効果はあったのか?
ミステリアス・・・
−−−−−−そのこころは−−−−−−
かつて東消庁には昭和49年から51年にかけて製作されたレスキュー車にA−2クラスのポンプを付けたRPという区分記号の救助車が存在していました。
存在したRPは下記の通りです。
松濤RP 32R 昭和50年配備
新宿RP 42R(大和41R廃止の後41R)
昭和50年配備
豊島RP 52R 昭和50年配備
芝RP 12R 昭和51年配備
本田RP 72R 昭和51年配備
標準仕様の救助車の車体に低床式PTOのA−2級ポンプを追加装備してボディー右横面に放口2口、吸口1口を設け、最初から中継送水を受けることを前提にしていたようで、32R、42R、52Rは1本2mの75mmの棒状吸管を4本、後方ボックスに引出式に予備収納していました。
12R、72Rは75mmのソフト吸管をボディー右横面のホンプ操作パネルに丸めてくくりつけてありました。
ぎ装に際してはポンプ付近、および吸管、ホース収納部分の防水性が配慮されていたようです。
当然積載できる救助資機材がその分減るわけで、それでもポンプを装備したメリットとしては、
1.
送水隊よりの中継送水を受ける、あるいは消火栓なりウォールハイドラントなりの火点最直近水利に水利部署できたとしたらポンプ隊の直接支援を期待せずに自隊での掩護噴霧注水を受けながら安全かつ積極的に進入救助活動が遂行できる。
これは火点付近の排煙と見通し確保の見地からも極めて大きい効果が見込める。
先日、東消庁の特救隊がカバー付ゴム長靴をはくようになったと話題になりましたが掩護噴霧注水が伴えば、これの原因となった青梅R隊員の下半身火傷事故のようなケースが防げる可能性があるわけです。
2.
救助活動任務終了後、ポンプ隊として防禦活動に従事でき、自ら放水圧をコントロールもできる。
延焼阻止後の残火鎮圧活動等もスムーズに行なえる。
デメリットとしては、
1.
前述のように救助資機材を積載できる量が確実に減る。
ポンプ本体、吸管、ホース、管そう・噴霧ノズル・シャットオフノズルの他に、分岐用媒介金具、二又媒介金具、消火栓用媒介金具、消火栓かぎ、スピンドルドライバー、グランドスパナ、65mm/50mm兼用スパナが積載されていました。
基本的には救助作業の遂行が最優先なわけで、技術の進歩に従って追加積載したい新装備品も目白押しに増えていたでしょうし。
そして、果たして進入に際しての入口での余裕をとれるほどの十分なホースの本数が積載できたかどうか。
2.
中継送水を待つ。あるいは水利部署をとってから筒先延長しているより、複数の検索班がすぐに進入救助活動を開始する方が はるかに救助戦の成果が期待できるという考え方も成り立ち得る。
特に最も多く発生する一般木造民家火災の救助有効時間は極めて短く、一説には出火後3分以内という一見不可能に思える数字すら出されています。
3.
現場での水利統制計画の支障にならないか。
4.
特救隊の任務として救助活動終了後、わざわざ防禦活動に従事しなくても排煙口の開放やサルベージ(水損防止作業)、フラッシュオーバーやバックドラフト、燃焼建物崩壊などの突発緊急事態に備えておくなど他に特科隊としてやることはいっぱいあるじゃないか。
特に東消庁はポンプ車の台数と人員に比較的ゆとりがあるのだから。
5.
ポンプと発電装置へエンジンの出力が取られる関係か、不思議にRPの車両にはフロントウインチがどれにも装備されていません。
以降の52年配備の43R(杉並R)、53年の82R(武蔵野R)のポンプなし標準救助車にはフロントウィンチが復活しています。
6.
ポンプをつけるよりは目黒R(だったと思うのですが)のように高圧送風装置を付けた方が救助車としては有効なのではないのか。
他消防の例を見るとポンプ付救助工作車に積極的なのは横浜消防。
万能型消防自動車としての活用を意図続けているようです。
その他、大震災に見舞われたことが記憶に生々しい神戸消防。
千葉県内では市川消防。これはレスキュー車にポンプに加え積載水水槽、鹿野式ホースカーまでご丁寧に装備という、失礼ながらごてごてのジャンルに入りそうな重武装を施してあります。
(余談ですが市川消防と船橋消防はあまり仲がよくありません。排煙高発泡車の元祖製作がどちらかなどといった意味があまりよくわからないことで張り合ったりしています。)
そして東消庁に関しては現在はRPは1台もありません。
かつて作られたRPは更新時にすべてポンプなしの標準車に切り替わりました。
と、いうことで結論はでているようなのですが、東消庁においてはRPの効用はあまり評価されなかったようなのです。
やはり中途半端だったということなのでしょうか。
ところが、最近、江戸川署や新宿署など特救隊配備の署隊では人員削減を意図してか、先行のポンプ2小隊を廃止してペア運用を取り止め、その代わり救助車を連携指定隊・先行小隊としてポンプ送水小隊とペアに近い運用をしているのが目につきます。
また青梅R隊員の火傷事故以来特救隊への掩護噴霧注水の必要性がクローズアップされています。
これだったらRPの復活が再び考えられても良いのではとの思いに今更ながらかられます。
いかがなものでしょうか。
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投稿日:1999年4月12日 Rescue119さんのBBSに書き込み
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