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2005年06月09日
千葉消防徒然話 その19
千葉消防揺籃物語
危険物火災消防:化学車編
>masa様
千葉市 TAK
この千葉消防揺籃物語シリーズの書き込みで水上消防、中高層火災消防、災害人命救助と順次書いてきましたが、消防艇、梯子車、救助工作車などの各特殊消防車両同様、危険物/化学火災についても、もちろん千葉県においては最初は何も無かったところから揺籃パイオニアとしての役割を担ってきました。
さらに化学車C属のファミリーとして耐爆装甲化学車(CA)やドライケミカル化学車(CD)、高発泡車(CX)など新兵器の特殊車両も順次登場してきました。
話はいつものように古く、遡って昭和40年から始まります。
昭和40年12月に吾妻町(現、中央区中央4丁目)の千葉市消防署本署(後の中央消防署本署)に千葉市消防署本署化学分隊として新規購入の普通化学消防ポンプ自動車が千葉県で初めての危険物/化学火災対応消防車両としてお目見えしました。
千葉消防ナンバーリングはC18(ちば18号)とつけられました。
ナンバープレートは「53」でした。
当時は千葉消防では水槽付ポンプ車がA、小型ポンプ車がB、特殊車両がC、救急車がD、それ以外の無線車、火災原因調査車等がEとつけれられていました。
特殊車Cに分類される特殊車両はそれまでは昭和35年12月に購入された18m梯子車しかありませんでしたが、この新規購入化学消防ポンプ車が千葉消防にとっては2台目の特殊車両になりました。
車両はいすヾTXG50改で(TXシリーズ最終型のSr.6)、化学車の基準としてはV型に分類されました。
その普通化学車としての装備は、A2級ポンプ、1.3立方メートル積載水タンク、1.2立方メートル泡消火剤タンク、圧送自動比例混合方式装置とボディー上部に800型泡放射銃(レバー手動式ターレットノズル)、ブースターホースリールとハンドノズル、自衛噴霧ノズル装置を装備していました。
もちろん化学車としての能力の他にA2級ポンプと1.3立方メートル積載水タンクを備えた水槽付ポンプ車として「速消車」として使えるポテンシャルも兼ね備えていて、そのために、車両最後部の最下部(放水員隊員席の下)には古いホースカーの形式の箪笥の引き出し状の箱輅車(はこらくしゃ)が文字通り引き出し式に装備されていました。
千葉消防ではこのタイプの箪笥の引き出し型箱輅車装備はこの車両が一番最後になりました。
シートは運転席と指揮官席のみのシングルシートで、屋根はハードトップメタル製で、側方窓もドアもない飛び乗り型のシートでした。
放水員さんの隊員席乗車位置は車両最後尾に横座りの対面シートが設けられていて露天で雨風に曝されながら出場することになっていました。
それでも当時の小型ポンプ車(当時一番ポピュラーだったのは初代トヨタランドクルーザーFJ45V改型)の標準であった車両最後尾の水平バーにしがみつくようにぶら下がっての車外乗車走行は威勢のいい消防の華であり、いかにも消防魂の発露として勇壮なシーンなのですが、いかにも長時間乗車は疲れそうで、間違って後ろから追突をくらうとペシャンコにされそうで安全乗車の見地から見ると本当にハラハラさせられた乗車方法に比べるとはるかに安全でベターだったわけです。
もっとも当時千葉市消防署本署化学分隊に対する配員は通常、分隊長と機関員の2名/2交替だけでしたからいざ出場、あるいは他の出張所への緊急配備移動の際は2名乗車ですから最後尾の隊員席乗車位置は空いたままで通常走っていました。
しかし、しばしば水槽付ポンプ車の予備車としてのもったいないような使われ方もしており、(当時、千葉消防には十分な数の予備ポンプ車/救急車を維持する予算が振られていなかったようで、これが改善されたのは昭和46年5月の田畑百貨店火災でマスコミなどに叩かれて消防予算が大幅増額された後になります。)その際には予備車としての派遣先の出張所ではポンプ1分隊として4名乗車で稼動していました。(ポンプ2分隊の場合、3名乗車。)
化学車という特殊車両については、当時の首都東京消防庁と地方の道県の自治体消防のギャップは天と地くらいあって、化学車は東消庁管轄ではすでに主要消防署本署/出張所に配置されていてさほど珍しい車種ではなかったのですが、都心から少しでも離れた地方道県の自治体消防においては化学車は高価な高嶺の花でした。
しかし、時代の要請として地方中小都市においても危険物/化学火災対応の化学車は徐々に必要とされ始めていました。
昭和30年代末から40年代にかけては当時日本はアジア初の東京オリンピックを成功させて高度経済成長期に差し懸かってきていて京浜・京葉地区や阪神地区、中京地区はウォーターフロント沿岸部の大規模な埋め立てが進行して大規模な石油コンビナート、石油貯油・精製施設などが目白押しに造成されつつありました。
千葉市地先でも遠浅海岸の大規模な埋め立てが始まり、昭和25年の川崎製鉄の誘致からはじまり、昭和31年に東京電力千葉火力発電所操業を開始し、昭和37年には工業開発中心の千葉県長期計画が策定され、工業化が大規模に促進され、さらに千葉港が昭和40年に特定重要港湾に指定されました。
また新港埋立地の石油精製所/石油タンク群建設など、大規模危険災害の発生する環境が増してきました。
もうひとつ、さまざまな紆余曲折を経てようやく昭和53年に新東京国際空港(成田空港)が開港し、日本の空の新しい玄関となりました。成田空港建設/開港にからんで、貨物列車によるジェット燃料輸送、および、花見川に沿って作られた石油パイプラインへのテロの脅威も、大きな危険災害発生要素となりました。
このような増大する危険物災害に対処するために化学消防体制が徐々に整備されていきました。
例によって当時の普通化学消防ポンプ自動車の雄姿の写真を下記のアドレスにアップロードしておきます。
ご覧になってみてください。
耐爆装甲化学車とドライケミカル化学車、高発泡車の写真も載せてあります。
http://www1.plala.or.jp/TAKSOHO/CFD/C53/
その後の千葉消防の化学車の整備は次第にアップテンポになってきて、昭和43年12月に南署本署(当時南署本署、後の蘇我出張所)、昭和46年2月に南署本署(南署本署は蘇我から宮崎町に変更)、昭和46年12月に同じく南署本署(前の車両は昭和46年4月に新規開設の千城台出張所・現在の若葉消防署に移動)と、かなり化学車が重点的に整備されました。(新規購入の車両は全て普通化学車・CP)
もちろん、先に購入されたC18と同様、水槽付ポンプ車のポテンシャルも兼ね備えていましたので、各署所の先行ポンプ1分隊として火災出場最前線で第一線で活躍しました。
さて、産業の高度化にともなって普通化学消防ポンプ自動車レベルでは対処できない事態が想定されるようになってきて、各種新型/高性能化学車が登場してきました。
危険物火災消防の華、耐爆装甲化学車(CA)は千葉県では市原消防が昭和47年に一番最初に導入して、千葉消防はそれに次いで昭和49年4月に千葉県で2台目の導入になりました。
市原消防の導入した耐爆装甲化学車はいわゆる「川崎型」でいかにも重機クレーン車然とした角張った武骨な重厚なフォルムでした。(全長9.385m、総重量19.3t)
千葉消防の耐爆装甲化学車C19は、いすゞSPG650改でフォルム的にはデコボコが減ってかなりすっきり洗練された容姿になっています。(全長10.122m、総重量19.165t)
よく、堺市高石市消防組合高石消防署高師浜出張所の耐爆装甲化学車と千葉消防の耐爆装甲化学車は同型車両ではないかとのご質問をいただきましたが、堺・高石消防の車両はいすゞシャーシーではなく昭和54年製の三菱ふそうK−FT102NC改になります。
ただ、フォルムも配置も細かい点を除いては(ターレットノズルの防楯の形状が千葉型は川崎型と同じ完全半球なのですが、ふそうにぎ装した型は上部がカットされた最上部が平らなちょうどタライをひっくり返したような形状になっています。またボンネット上にふそうの方は四角のトラメガ風のスピーカーが載っていますが、千葉の車両にはこれがありません。)実によく似ていることも確かですのでシャーシーメーカー違いの準同型といっても良いのかもしれません。
もっとも、少し遅れて石油精製施設や石油コンビナートであちらこちらの民間企業さんが購入した耐爆装甲化学車はこの三菱ふそうシャーシー型が圧倒的に多いようです。
自治体消防で耐爆装甲化学車を導入した機関は当時、私の知る限りでは、
・大阪
昭和45年4月の大阪市天六都市ガス爆発大事故を踏まえて大阪市消防局がこれの直接対策として昭和45年に従来からあった重化学車をベースに耐爆機能を持った耐爆型化学車を4.5mmの高張力鋼の装甲板を貼って試作し、これが装甲化学車の嚆矢となりました。
この「試作大阪型」は戦車や装甲歩兵戦闘車などの装甲戦闘車両というか、積み木細工を重ねあわせた建設工事用の重機のような印象の車両でした。
・川崎、市原、水島(倉敷市)、四日市、新潟
以上「川崎型」。
前記「試作大阪型」を範に翌年46年に川崎市消防局がこの大阪消防試作の車両をベースに、より実用性を高めて完成されたものです。
装甲化学のプロトタイプになった完成された耐爆装甲化学車は要目、前2軸、後1軸、ホイールベース5.1m、全長9.385m、総重量19.3t、A1級ポンプ搭載。
4.5mmの高張力鋼板。内板1mm。
間に50mmの断熱材を挟んでいました。
すべての窓にはスリット入り鋼板覆いが付きました。
防楯付のターレットノズルに3000型泡放射砲と5000型放水砲を油圧で切替えて使用できました。
(最初の「試作大阪型」の車両は隊員が外に出て人手でノズルの付け替えをしていました。)
また、運転席の屋根にドライケミカル放射装置を備えた複合型化学車でした。
・千葉、堺・高石、川崎2(2台目の耐爆装甲化学車)
以上「千葉型」。
外見はかなり洗練されましたが、性能は「川崎型」とほぼ、同じ。
ドライケミカル消火装置も装備していました。
追加性能として爆発発生危険度大の際には隊員が車両を離れて安全地帯から3000型泡放射砲/5000型放水砲を無線リモコンで操作して泡放射/放水できるようになりました。
・東京(羽田の空港出張所配備)
千葉消防と同時期の昭和49年に蒲田消防署空港出張所(当時)に東消庁で初めてCAいすゞSPM550改(車両識別番号C4989)が配備されました。
これは、川崎型、千葉型とは全然違ったデコボコのない箱型フォルムでした。また、3000型泡放射砲(5000型放水砲と人手で付け替えも可能)も2基装備していましたが、ドライケミカル消火装置は積載していませんでした。
ただし、装甲は川崎型、千葉型と比べて多少薄くて外板2.3mm、内板1mmの二重構造で、間に50mmの断熱材は挟んでいませんでした。
前進/後退/泡放射/放水が有線リモコン操作(120mの巻ケーブル付移動式操作盤で操作)できました。
以上が私が知っている限りの自治体消防配置になります。
あるいは他にも耐爆装甲化学車を導入した自治体消防機関があったのかもしれません。
千葉消防の耐爆装甲化学車は購入当初は真砂の局本部の警防課直轄特別救助隊が耐爆装甲化学車を救助工作車、梯子救助車とともに運用していました。
後に、昭和50年1月に中央消防署水上出張所が臨港消防署本署に昇格した際に、同署本署に移動してその後、最後まで臨港で運用されました。
(臨港消防署本署は平成4年4月1日に千葉市の政令指定都市移行にともない、中央消防署臨港出張所に降格。)
そして、各自治体消防の導入した耐爆装甲化学車はその後更新されないで、性能的に非耐爆、非装甲にトーンダウンした大型化学車/重化学車に置き換えられたケースが多いようです。
東消庁のレインボー5のような消防ロボットや消防ヘリコプターからの薬剤散布等の新しい人的危険回避技術も進んできたこともあります。
千葉消防でも結局、耐爆装甲の更新はされず日野の8tシャーシーの大型化学車に置き換わってしまいました。(残念!?)
まあ、ある意味では更新の必要性を再認識させるような耐爆装甲化学車の真価が本格的に発揮される大規模危険災害に遭遇せずに終わったことは幸いであったとも言えます。
なお、東消庁、堺・高石では装甲板が薄くなったり窓ガラス保護のスリット入り鋼板覆いがなくなった軽快な空港用クラッシュガードに近い車両に替わっています。
また、近年、横浜消防と北九州消防がスーパーファイター/スーパーレスキューと名づけた大震災対策を主眼に置いた耐熱救助車/耐熱装甲型救助活動車が製作されてかつての耐爆装甲化学車を髣髴とさせるものがあります。
また、上記の化学車C属ファミリーの一員として、ドライケミカル化学車(CD)を千葉消防が千葉県で初めて昭和55年12月に導入しました。
DC化学車は化学車の中でも極めて特殊な化学車で、1立方メートルの大きな球形粉末容器そのものに車輪4つとハンドルをつけたような、いわば、走る大型消火器とでも言える極めて特殊な消防車両でした。
どのような経緯、意図的で導入されたのかははっきりっとはわかりませんが、千葉消防での昭和53年10月の臨港消防署高浜出張所への化学3点セット配備に次ぐ、臨港署本署への2セット目の化学3点セットの導入(高所放水車仕様のシュノーケル車:LSと泡原液搬送車:SO。これに既購入済みのCAを組み合わせて3点。)と同時に購入されたのであるいは石油施設立地交付金の絡みがあるのかもしれません。
石油火災のみならずガス火災、電気火災、アルコール火災等の特殊火災に対処できました。
適応火災A、B、のCいずれも有効な燐酸塩類等を主成分にした第3種粉末薬剤を積載していたと思われます。
この車両は最初、中央署本署に配備されました。
その際には運転席屋根の隊名表示灯に「臨港消防署」と書かれていてしばらくそのままで中央署本署で稼動していましたので、最初は臨港署本署、あるいは高浜出張所で使う予定だったようです。
後に平成2年1月に臨港署高浜出張所に移動して大型化学車:CC・高所放水車仕様のシュノーケル車:LS・泡原液搬送車:SOの化学3点セットと並んで別棟車庫に格納されていました。
その後、平成5年4月に美浜消防署打瀬出張所が新規開設されるとそちらに移動して平成平成13年3月に引退しました。
ちなみに、ドライケミカル化学車のいちばんはしりは東消庁になります。
昭和40年代初めにだだ1台だけ製作されて麹町消防署永田町出張所に置かれていました。
ちなみに、このDC化学車は昭和43年8月1日に麹町消防署永田町特別救助隊が東消庁初の運用を開始した当時、同特別救助隊が永田町化学小隊の切り替え運用をも併せて担当していました。
東消庁では更新はされずDC化学車はこの車両で終わってしまいました。
千葉消防でも同じく、結局、車両更新はされず大型化学車に置き換えられてしまいました。
千葉県で一番最初に導入された千葉消防の高発泡車(CX)は(高発泡車も化学車C属ファミリーの一員です。)昭和48年3月に南消防署本署に新規配属されました。
いすゞTXDロングノーズボンネットの最終型Sr.6。
低床シャーシーのダブルキャブで窓もドアもないいわゆる飛び乗り型のシートでした。
千葉消防ナンバーリングはC59(ちば59号)とつけられました。
ナンバープレートは「1526」でした。
後部ボディーは非常に大きな箱型で、ちょっと見ると救助工作車と見間違うようなスタイルでした。
ボディー後面にはホースカーと同様な積載方法で可搬型エンジン動力式高発泡機が積まれていました。
その奥は観音開きのドアになっていて可搬型高発泡機を降ろしてからその扉を開いて本体車体積載高発泡機につながった太い直径の発泡チューブを引っ張り出す構造になっていました。
ボディーの側面には救助工作車と同じように観音開きの扉が付けれられていて予備の発泡チューブや分岐チューブが入れられていました。
さらにはボディーの収納スペースに収まりきれない予備発泡チューブが後部隊員席の右側にも積まれていました。
時期的に見て、いすゞTXDボンネットの型の車両としてはかなり最終生産に近い車両になると思われます。
その後昭和48年6月に一時期、南署本署を離れて真砂の局本部の警防課直轄特別救助隊に配属されましたが(試験的に梯子救助車、救助工作車、高発泡車の3台ワンセットの横浜消防の特別消防隊にならってみたのかもしれません。)翌年4月に再度南署本署に再び戻ってきて、昭和50年1月の京成ストアー第4次建物火災ではエポックメーキングな大きな活躍を見せました。
(京成ストアー第4次火災の詳細については千葉消防徒然話 その11をご覧下さい。)
その後南署本署から北消防署畑出張所に移動して、昭和53年4月には畑出張所からより市中心部に近い千葉消防特殊車センターとも言える臨港署本署に移動しました。
臨港署本署の高発泡車C59は平成2年1月に新規の高発泡排煙車に更新されて現在に至っています。
従来の高発泡注入機能に加え、空気を送出、吸入しての排煙機能が新たに付加されたわけです。
なお、化学車C属ファミリーには東消庁分類ではCSとされているHAZ-MAT・特殊災害対応車も含まれているのですが、(この車両も千葉消防が千葉県で一番最初の導入ですが)これについてはまた、稿を改めて記することにします。
以上徒然のままに。
投稿者 taksoho : 2005年06月09日 05:33